歴史・沿革

神戸山手学園は1924(大正13)年5月9日「山手学習院」として諏訪山の麓に設立されました。
大正後期の神戸には、女学校の数が少なく、向学心に燃える女子生徒も進学を断念して小学校を卒業するのが実情でした。この現実に心を痛めた杉野精造神戸市立山手尋常高等小学校校長が発起人となり、前神戸市長・鹿島房次郎(後に川崎造船所社長、神戸商工会議所会頭を歴任)を初代校長に迎え、小学校保護者及び地元有志の浄財によって設立された学校が神戸山手学園の前身です。

山手学習院は開設以来、「自学自習」と「情操陶冶」を建学の精神とし、それを今日まで引継ぎ、さまざまな分野で成果を発揮しています。 設立当初の山手学習院には、専用の校舎はなく、市立山手小学校に間借りすることからスタートしています。
1926(大正15)年 現在の中学校・高等学校の地に建設
念願の校舎が、神戸港地方口一里山一番地、つまり現在の神戸山手女子中学校・高等学校のある場所に建設されました。また、昭和3年には、「校歌」が、そして翌年には「校旗」が制定されています。
1938(昭和13)年7月 阪神大水害
阪神地域を大雨が襲います。7月2日から5日にかけて、総雨量が460ミリという大雨に見舞われ、神戸市内の各所で河川の増水・氾濫がおこりました。谷崎潤一郎の小説「細雪」にも登場する阪神大水害です。
再度谷川に沿って立つわが校も、正門が流出するという被害が発生しました。幸い、授業を早めに打ち切って生徒を帰宅させたため、生徒への被害は殆どありませんでした。
1941(昭和16)年に太平洋戦争がはじまると、戦意高揚のための行事、防空演習などが行われるようになり、ついには授業を行うこともできず、生徒たちは工場に送り込まれることになりました。
クリーム色だった校舎にも黒い迷彩がほどこされ、同年の3月17日の神戸大空襲では、鉄筋校舎一棟を残しただけで、他の木造校舎はすべて全焼してしまいました。


1947(昭和22)年 神戸山手女子中学校 神戸山手女子高等学校として再出発
敗戦後、教育制度が改められると、1947(昭和22)年に「神戸山手女子中学校」、1948(昭和23)年に「神戸山手女子高等学校」として再出発することになります。
組織変更により「財団法人神戸山手学園」と改称、1951(昭和26)年には「学校法人神戸山手学園」が設立されました。

1950(昭和25)年 神戸山手短期大学 開学
神戸山手女子短期大学が開学します。短期大学は現在の校地ではなく、中学校・高等学校の校地に間借りする形でスタートしました。
春の選抜高校野球大会開会式における大会歌の合唱を神戸山手女子高等学校生徒が担うことになり、現在まで甲子園に「連続出場」しています。

1969(昭和41)年 神戸山手女子高等学校に「音楽科」を設立
神戸山手女子高等学校音楽科が設立されました。兵庫県下では最も古く、全国的にも伝統のある学校として知られています。
神戸山手学園を襲った3度目の災害とも言うべき阪神淡路大震災の被害を受けます。
神戸山手学園は大西胖理事長を震災により失い、学生・生徒、教職員も家屋の全半壊等の甚大な被害を蒙りましたが、全員が無事で、校舎も、一部にダメージがあった程度で乗り切ることができました。
神戸山手大学「人文学部環境文化学科」が設立され、平成13年には「共学」となりました。神戸山手女子短期大学も、平成16年から共学となり、校名から「女子」が消えることになりました。

2000(平成12)年 神戸山手女子高等学校・中学校のコース改編
神戸山手女子高等学校普通科英語コース(平成6年設置)を文理コースに改編し、翌年の平成13年には神戸山手女子中学校に特進コースと進学コースが設置されました。
神戸山手学園は創立80周年を迎えました。 しかし、21世紀はまだ始まったばかり。神戸山手学園の歴史も、まだまだ始まったばかりなのかもしれません。

2006(平成18)年 大学と短大の改組転換
神戸山手大学に「都市交流学科」、神戸山手短期大学に「キャリア・コミュニケーション学科」が設置されました。
神戸山手大学が開学10周年を迎えました。
また、財団法人日本高等教育評価機構の大学機関別認証評価の結果「認定」されました。
同時に、短期大学も財団法人短期大学基準協会の第三者評価の結果:「適格」と判定されました。

2010(平成22)年 神戸山手短期大学が創立60周年を迎えました。

2013(平成25)年には、神戸山手大学に総合社会学科が設置されました。
神戸山手学園が創立90周年を迎えました。

2015(平成27)年 神戸山手大学に観光文化学科が設置されました。